特別講師

青山志穂

一般社団法人日本ソルトコーディネーター協会 代表理事
慶應義塾大学総合政策学部を卒業後、カゴメ株式会社に入社。トマト製品のマーケティング・商品開発に携わる。その後、沖縄に移住し、塩の専門店「塩屋」にて、日本初のソルトソムリエ制度を立ち上げる。現在は、全国各地を飛び回りながら、講演活動やメディア出演など、塩の魅力を広く伝えている。

浅井信太郎

株式会社まるや八丁味噌 代表取締役社長
東京農業大学卒業後、大手醸造会社に就職し、ドイツへ留学。欧米での味噌の市場開拓に関わる。その後、味噌蔵の老舗、合資会社大田商店(現:(株)まるや八丁味噌)に入社。オーガニックの可能性を見出し、1980年代から有機大豆を使った八丁味噌の輸出を主導。現在は、八丁味噌の伝統を次代へ繋ぐため、地元プランドの開発に奔走。海外では「MR.HATCHO」の愛称で、サムライ装束でMISOを紹介。

伊藤志乃

株式会社MIKURA 代表取締役 
三重県御浜町で伝統的な静置発酵法で酢づくりをしている御蔵酢。2011年の台風の水害によって被害を受けた蔵の職人を受け入れ、酢の製造業を開始した会社があったが、その会社は経営者が二転三転。伊藤さんは一念発起し、その会社を引き受け、食品でも製造業でもない全くの異業種から、発酵業界に新規参入。会社を立て直す。

稲葉泰三

有限会社タイコウ 代表取締役社長
1956年東京都生まれ。20歳の頃より家業のかつお節問屋に入り、先代の下でかつお節の目利きについて研鑽を積む。先代は父であり、日本三大目利きの一人、稲葉美二氏。1986年に会社を継承し「有限会社タイコウ」を創業。以降は、日本一美味しい本枯節を求めて鹿児島県枕崎市の生産者と技術を磨く。かつお節の本来のおいしさを知ってもらうために「鰹節マイスター」として、全国で出汁(だし)取り教室を開催。

大西孝典

タイおよびインド北部に在住。日本食が不足の海外で、現地の物を利用して発酵食品作りを始める。
北インドのヒマラヤ山中にて、現地の邦人やインド人に現地素材を使用した麹、味噌等の発酵食品の作り方を伝授。

柿谷政希子

柿太水産6代目社長
明治初期から続き、富山県氷見浜の魚にこだわって関わり続けて100年あまり。6代目として卸売から小売業への移行決断。以降、柿太ブランドの育成に力を注いで、今や「柿太印」が全国にも届けられ愛されるようになる。また、食育活動にも熱心で、氷見の子供達に“本物の食“を伝えている。

國松千純

元祖國松本店 
調味料の原型と言われている濱納豆は、140年来、豊橋船町の地で製造する歴史的食材で、徳川家康も栄養食・保存食としても愛用していた。現在、三河地方で濱納豆を醸造しているのは國松本店のみ。希少価値が大変高く、國松さんはその文化を絶やさないよう、跡継ぎとして修業中。

黒島慶子

醤油ソムリエール 
醤油とオリーブオイルのソムリエ&Webとグラフィックのデザイナー。小豆島の醤油のまちに生まれ、蔵人たちと共に育つ。20歳のときから小豆島を拠点に全国の蔵人を訪ね続けては、さまざまな人やコトを結び続ける。無農薬で大豆と米を育て、米・豆・麦の麹を造る夫と愛知県に住む。高橋万太郎氏と共著の『醤油本』を出版。一児の母。

香坂つぐみ

発酵フードクリエイター
子どもがアレルギーと喘息だったため、子育ての間15年間医療従事者として働き、医療に携わる。自分も虚弱体質で悩んでいたところ発酵食と出会い是友麻希と出会う。是友麻希の発酵講座の門下1期生。発酵の魅力に取りつかれ、趣味で色々試作しているうちに、発酵教室やワークショップ、レシピ提供などをして現在に至る。

斉藤達也

陽だまり堂 代表
20代で単身中国へ渡航し、飲食店を経営するかたわら、WEBコンテンツのカメラマン件編集者として制作に関わる。父親の大病を機に帰国し、奄美諸島の伝統発酵食「ミキ」と出会い、半年間かけて「神様の食べ物ミキ」を研究。父親の体力と精神力がみるみる回復したことから、その魅力と力を実感する。ミキの製造販売を本格的に開始。

眞田也守志

株式会社黒怒 代表取締役社長
新聞奨学生として働きながら産業能率大学にて経営学を学ぶ。外資系コンピューターメーカーに入社するが、父の他界に伴い退社し、地元香川県の食品会社に入社。ここで無添加のスープ販売に携わり、黒怒と運命的に出会う。2年後半ば無理やり黒怒に転がり込み、佐野会長の下で自然食について学び現在に至る。

澤田薫

澤田酒造株式会社 代表取締役社長 
愛知県常滑市で170年続く酒蔵の跡を継いだ若き女性社長。古式伝承、手作業での麹づくり…手間を惜しまず、心に染みる味わいを求め、蔵人たちの熱き心が伝わる。銘酒「白老」を作りづつけている。

助野彰彦

株式会社菱六 代表取締役社長
1977年京都府生まれ。早稲田大学を卒業後、東京農業大学で醸造の知識を学ぶ。創業360年の歴史を誇る京都の老舗種麹屋「菱六」の現当主。

角谷利夫

角谷文治郎商店三代目 社長
創業103年の三州三河味醂醸造元。味醂一筋40年以上。味醂を通じて、お米のうまみ、美味しさを伝えることに専心。又、日本のお米を原料に味醂造りをすることを通じて、日本の緑の確保、環境保全に貢献していきたいという強い思いがある。また、「味醂」とともに地元・愛知の醸造文化を国内外に発信中。

角谷文子

株式会社角谷文治郎商店
愛知県碧南市出身。みりんの本場で「米一升・みりん一升」の伝統的な製法を受け継いでいる角谷文治郎商店(1910年創業)に生まれる。もち米のおいしさを醸造という技のみで引き出した本格みりんは、海外でもブームの兆しを見せている。みりんの新たな魅力を発信するため、国内外で活動中。

多田一政

第一酵母株式会社 専務取締役
玉川大学 農学部 農芸化学科卒。1999年大学卒業後、第一酵母株式会社(伊豆の国市)に入社。多田龍生(父)より、天然酵母の発酵技術の全てを学び、製造管理 を引き継ぐ。工場長を経て2009年から同社取締役 専務となり、現在に至る。また、NPOユー・アイ・クラブ正会員として、発酵食の普及に全力を注ぐ。

千葉清明

日東醸造株式会社 開発営業部
老舗レストランの物販部門で日東醸造のドレッシングを販売していたことをきっかけに、入社。「原料からお客様の口に入るまで」の全ての工程にこだわり抜く社長の姿勢に惚れ込み、不要なものは全てそぎ落とす異例の営業マンとして活躍。「数字よりもこだわり。こだわりよりも、お客様の求めるもの。」がモットー。

辻田雅寛

糀屋三郎右衛門7代目社長
23区内で唯一の味噌蔵。麹づくりから一貫して国産原料と手作りにこだわり、昔からの製法で味噌作りを続けている。小学校などの食育活動や味噌づくりのワークショップなどにも積極的に参加し味噌作りの普及活動に努める。発酵止めをしない微生物が活きた味噌は、うま味が強く豊かな風味が特徴。

長友陽子

長友味噌醸造所女将
明治時代創業の醤油味噌の醸造元に長女として生まれ、実父の他界を機に、蔵の仕事に関わる。地元の幼稚園保育園をまわって、園児たちと味噌作りを始める。各所での味噌教室開催に加え、宮崎を訪ねてくる外国の方々向けの味噌作り体験教室を二年前から始め、味噌を通して日本の田舎の食体験をしてもらう活動を行っている。

蜷川洋一

日東醸造株式社 代表取締役社長
愛知大学法経学部経済学科卒。1982年大学卒業後、酒類販売の江崎本店(名古屋市)に入社。1984年同社退社後、日東醸造に入社。専務を経て1994年から同社代表取締役社長。愛知県味噌溜醤油工業協同組合 副理事長。碧南商工会議所 食品醸造部会長。

松永悠佑

株式会社田丸屋本店 R&D部 開発課 係長
新商品開発と広報業務を兼任。TVやラジオ等で、わさび漬けの歴史を伝えたり、自社商品PRもしている。伝統ある発酵食品を守りつつ、旅人にお土産を提供質続けてきた田丸屋の開発部で、未来へ繋ぐための情報発信や新しい発酵食品の可能性を模索している。わさび漬けと酒粕とわさびについて研究中。

萬谷 縁

有限会社 ホクリクバイオ 店長
金沢生まれ。美味しいものが大好きで、食べ歩きも行きますが、自分でなんでも作ります。かぶら寿司は、氷見ゆかりの発酵食です。かぶら寿司づくりを生業とするようになったのは、嫁に来たからです!実家では、お醤油もお味噌も作っています。

みさきのゑ

勤務会社にて商品開発、コミュニティを構築、人材育成事業にて管理職研修に携わる。アジア等に滞在しながら日本文化を追求。帰国後、地方活性事業に取り組み、日本発酵文化協会立ち上げに従事。家族が乳がんを発症し、免疫力を上げる為に発酵を学び、日本の伝統である発酵食の素晴らしさを体感。現在、日本文化を世界に広めるべく活動中。

本地猛

東海醸造株式会社 蔵人
味噌の奥深さと多様性に惹かれて小さなローカル蔵で豆味噌たまりづくりに没頭。木桶を傾け、底部に杉板と布(かつては竹筒とムシロ)で簡易ろ過装置を細工し、産膜酵母を排除しない特異な仕込みを続けている。趣味のマラソンでは小袋に入れた豆味噌をゼッケン裏地に貼り付けておき、レース後半にチャージしてフルマラソン4時間切り達成。

オイケンタ

家庭料理探究家
レシピサイトぷちぐるの運営をライフワークとし、各メディアに料理講師として出演。また、企業の新作レシピやCMレシピを考案するなど各方面で活躍中の4児の父。著書:オーイ!つまみできたぞ。

中西美奈子

うんこのコーディネーター
「入れること」より「出すこと」を最重要と考え、うんコーディネーターという、女性にはリスクしかない肩書をひっさげて、ココロとカラダのうんこを出すお手伝いを生業としている。
子宮がんを発症し、食と生活習慣、意識の改革を経て、NK細胞を活性化させるべく「笑ってがんを治そう」と決意。独自の食養哲学を提唱している。